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  ゆびさき

 ゲームの終盤、残り時間は十秒ジャスト。
 あたしは、跳んだ。相手のシュートコースを塞いで、右手を高く突き上げて。
 中指を掠ったボールの感触は、今でも鮮明に覚えている。


 後がない、という切羽詰った感覚を、貴子は引退を間近にして初めて思い知った。中高一貫校に六年通い、その間ずっとバスケをやった。試合に負けても次があれば、悔しさを練習のバネにすればよかった。それすら叶わず、後輩たちの反省会を後ろから眺める時ほど空しく過ごす時間はない。
 貴子は右手を握り、開き、見るともなしに拳を見ていた。体育館二階の欄干にもたれると、思っていたよりも間近に練習風景が広がっている。数十人の部員が入り乱れて走るそこからは、ボールのバウンド音や歯切れのよい掛け声、シューズが床をこする音が入り混じって聞こえてくる。その混乱さえも今ではどこかよそよそしい。
 八月中旬の猛暑は今でも変わらず、体育館を埋め尽くしていた。両腕に触れる欄干の鉄がひんやりと気持ちいい。その感触を味わいながら、貴子は左手に持った単語帳に目を落とした。
 高三の夏だ。進路に大学進学を選んだからには、本格的に受験勉強を始めねばならない。ただでさえつい最近まで部活をやっていた分、周囲に遅れを取っているのだから。
 気が引き締まるわけでもなく、気分転換ができるわけでもなく。ただただ漫然と、気持ちは部活に引き寄せられた。中指の腹が静かにうずく。
「よお、受験生」
 際限なく沈んでいく思考を引き上げたのは、聞き慣れた声だった。振り向くと、ジャージ姿の同級生がそこにいた。
「高山。あんた何してんの」
 男子の中でもひときわ背の高いこの男は、口角を上げてにやりと笑う。
「補習受けてたんだよ。早退してきてこれから練習。――お、やってんな」
 高山はそう言って、体育館を見下ろした。
 ネットで三つに区切られた練習場所は、それぞれ女子バスケと男子バスケ、女子バレーが使っている。男子に与えられたスペースが大きいのは、男子バスケだけが夏の大会を勝ち進んでいるからである。数日前には女子バスケ、その一週間前に男女バレーの三年生が部活生活に幕を下ろした。
「ああ、化学? あたしそれ受けそびれた」
「藤やんならプリント余らしてんじゃねえ?」
 愛称で呼ばれた化学教師が常に必要枚数より多くプリントを用意することを貴子は思い出す。
「んだね。行ってみよ」
 貴子がそう言い終わらぬうちに、下から野太い歓声が届いた。男バスだ。見たところ今はゲーム形式の練習で、誰かがシュートを決めたのだろう。秋に向けた練習と本番を目前に控えたそれとは気合が違う。
「そういや、あんたらが次当たるのってどこだっけ」
 男バス部員の高山を見上げ、貴子は尋ねた。「確か明日だよね」
「まずはK高で、勝てばT学院。それまた勝ったら――たぶんF学園とN高だな――の、勝った方と準準決」
「なに油売ってんのあんたは」
 名前の挙がった学校は、どこも強豪といえるチームばかりだった。
「まずは二時間化学漬けの頭、冷さねえと」
 高山は不敵に笑ってのたまった。「切り替え切り替え」
「馬鹿じゃないの」つられて貴子も小さく笑う。「そっか。……しんどいね」
「おう」と高山は短く答え、欄干から腕を離した。
「じゃ、行ってくらあ」
「うん……負けんなよ」
 言葉とは裏腹に弱々しい口調だと、言ってから貴子はそれに気付いた。
 高山はにやりと笑って「おう」と返し、練習場へと去っていく。その背中を見送って、貴子は再び男子バスケに視線を戻した。
 ――あと、何日だろうか。
 夏季大会の試合日程は四日間で解消される。男子バスケが涙を呑んで、秋への練習に移行していく日は近い。最後に勝って終われるのは、何十もの参加校のうちのたった一校だけなのだ。
 あの試合の最後の時に指先をすり抜けていったものの重みを、貴子は思った。
 たった数センチの、遠い距離。貴子の指先が掠めたそれを、果たして高山は手にするのだろうか。貴子の脳裏に、にやりと笑う顔が浮かぶ。
 ――勝ってほしいな。
 儚い望みと知りながら、貴子は切にそう祈った。

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