| トップページ | 小説リスト  | ごあんない | リンク集 |

  空に舞う汽車

「沙紀さんよ。これは一体何だと思う」
 予備校へ向かう道すがら、目前に現れた非日常に、ゆかりは我が目を疑った。
「見たまんま、これは汽車だと思うけど」
 隣からは涼しげな友人の声が返ってくるが、ゆかりは暫くその物体から目を離すことが出来なかった。手の甲で両目を拭ってみても、目の前の景色は何ら変わらない。
「いや、ないよ、これは。ないない」
 受験勉強の疲れでも出たのだろうか。ゆかりがそう訝しんでいると、沙紀の返答が追い討ちをかけた。
「現実を直視しなさい、ゆか。これは夢じゃないよ」
 沙紀はいかにも落ち着いた様子で、両手でホッカイロを揉んでいる。それを見て、現代日本において真っ当な常識にすがるのを、ゆかりは溜め息と共に諦めた。

 広くもなく狭くもない、テナントビルに挟まれた道は、両側の歩道の端から端までをそれに横切られている。まるでおもちゃのような汽車だった。先頭部分の煙突は小ぶりな黒い煙を吐き出し、地面から数センチほど浮かんだ車輪は空を切って回っている。やがて威勢のいい汽笛が鳴った。
「百歩譲って、汽車はいいよ。だけどさ――なんで猿」
 ゆかりが先頭車両を見上げると、煙突の傍らには猿の着ぐるみが座っている。ゆかりの疑問に答えるかのように、猿はこちらを振り向いた。首だけを回して、黒々とした双眸で二人の女子高生を見据えている。
「よお、お嬢ちゃんたち」
 シンバルを延々と叩き続けるおもちゃを連想させるその猿は、おもむろに口を開いた。「学業に苦心されとるお二方。お乗りになるかい」
 意外に低い声色だ。口を閉じることも忘れてゆかりが呆気に取られていると、猿は付け加えた。「おっと、代金なんて無粋なことは言わねえよ」
「……新手の誘拐?」
 ゆかりは思わず沙紀の方を振り向いた。動揺の見られないその表情は、何かを考え込んでいるようだった。
「当たらずとも遠からず、かな」
「まっさかまさか。寒ぅい季節の出血大サービス。おいらは悩める受験生の味方でい」
 沙紀の言葉に被せるように、猿はマシンガントークをぶっ放す。ステレオタイプの八百屋のおじさんだ、とゆかりは思った。
「しんどい気分やプレッシャー、そんなもんからちいっとでも離れたいと思うだろう。そんな時はこいつだ。すいーっと町中、空中散歩。車内はどっこも快適無敵。暑くも寒くも、おまけに揺れもなーんもねえ。こいつはとってもお乗り特!」
 猿が台詞を言い終えるのと同時に、汽笛が再び空に響いた。黒い煙は空に散り、小さな粒となって消えていく。肌を刺すような風が舞う、真冬の青空に。
 猿の言葉は、不思議とゆかりの心に染み込んだ。――しんどい気分やプレッシャー。日に日に迫る本番に、どこかへ駆け出したくなる衝動。それは、かなり身に覚えのある感覚だ。
 不意に、猿の声がする。
「ん、そっちの嬢ちゃん。――見覚えのある顔だねえ」
 沙紀の方を見据え、猿は顎に手を当てて考える仕草をした。隣で沙紀がくすりと笑うのがわかる。
「宣伝文句は変わらないのね。あの時は暑かったけど」
「え、何。何の話?」
 ゆかりは口を挟むが、両者のどちらからも回答は得られなかった。猿は同じポーズを取って首をかしげているし、沙紀は肩をすくめてみせただけだった。
「ふうむ」と猿は考え込んでいたが、やがて思い直したのか、姿勢を元に戻して言った。「さあ。どうすんだい、お嬢さん方。乗るか乗らねえか」
 作り物のような黒い目が、ゆかりの表情を映しこむ。何となく居たたまれなくなって視線を逸らすと、ゆかりは車両の窓に人の顔を見た。片面だけで十箇所ほどの窓があり、そこから車内の様子が伺えるようになっている。数人の男女がそこにいた。
 楽しそうに談笑する姿、背もたれに身体を任せてまどろむ姿、携帯電話でひたすらメールを打つ姿もあった。冬の受験生に特有の、どこか切羽詰った空気は微塵も感じられない。車内に並ぶのは、弛緩した表情ばかり。
「――あたしは、いいや」
 そう言うと、猿は驚いたように「いいのかい」とゆかりに訊ねた。傍らの沙紀さえも、意外そうな表情を浮かべている。
「そうかいそうかい。そりゃあ残念」
 ゆかりが頷くと、猿はあっけらかんとした口調で答え、沙紀を見た。
「あたしも、これから授業なの」
 腕時計を猿に向け、続けた。「ずいぶん縁があったわね」
「おう、がんばれよ」
 猿はそう言い残し、汽笛を鳴らす。煙突は煙を吐き出し、車輪の回転はどんどんスピードを増して行き――。ゆかりが目を瞬いた次の瞬間には、汽車は跡形もなくなっていた。
 目の前には何の変哲も無い、広くも狭くもない道が伸びている。
 ゆかりが呆気に取られている傍で、沙紀は事もなげに歩き出す。ゆかりは数歩遅れて追いかけた。
「沙紀、あの汽車乗ったことあんの?」
「夏休みに一回ね」
 罰が悪そうに沙紀は微笑む。「まさか二回も出会うとは」
「ふーん」
 汽車の話題はそこで途切れた。
 授業の範囲や模試の判定、その他受験生らしい会話をしながら、二人は早足で塾へと向かう。
 寒空の下、町のはるか上空を優雅に泳ぐ汽車の姿を、ゆかりは頭の片隅に思い描いた。

戻る

クリックが創作の励みになります。お気軽にどうぞ。※コメント無しでも送れます
Copyright (C) 2008 Asa Itsuki All Rights Reserved. inserted by FC2 system