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  葉桜の頃に・1

 五月半ばのお昼の教室は、まるでぬるま湯に浸かっているかのような温度に達している。
 暑い、と呟こうとして、そこまで言うほど暑くはないことに千代は思い至った。暑いというよりはむしろ暖かい。温泉卵にでもなってしまいそうだと思って、千代は溜め息をついた。
 暖かすぎる室温と、お弁当の満腹感と昼休みという気の抜けきった時間帯が相まって、千代は机に突っ伏した。両腕を枕にしたまま教室中を見渡してみれば、通常よりもわずかに人口密度の低い室内に見えるのは千代と同じように眠気に襲われているセーラー服姿ばかりだ。
 女ばかりのこの環境に、千代はたまに心から安堵する。平和だなあ、と口には出さずに呟いた。そして目を瞑ると同時に、常にこの平和を突き崩そうと立ち回る種の友人のことに思い至る。
 女子校にいては出会いがない、と持てる手段を駆使して男の子と知り合ったり、それが片思いや両思いに発展したりと、そんな光景が女子校の一角で見られることが時々ある。その度に、わかんないなあ、と千代は思う。そしてそれを口にするたびに「千代は乙女心が分からないから」と目の前にいる友人に一蹴されるのだ。
 その瞬間、目の前の机の向こうで椅子が音を立てた。先程まで額をつき合わせて座っていた美香が勢いよく立ち上がったのだ。薄目を開けて見上げてみると、美香は携帯電話を片手に勝利を勝ち取ったかのような笑みを浮かべている。
 何かあったの、と声を出そうとしたが、それは美香に肩を掴まれたことで掻き消された。
「ビッグニュースだよ、千代。起きなさい」
 美香の肩にかかるセミロングがふわりと揺れる。千代は小さく欠伸をした。
「なに、デートの約束でも取り付けたの?」
「ばか、今はそんなんじゃないってば。いいものが手に入ったの」
 観念して上半身を起こすと、爛々と輝く眼が見えた。
「何があったの」
 ふふん、と得意げな笑みを浮かべながら美香はもったいぶって囁いた。
「文化祭のチケット、貰えることになったの。一高のね」
「ふうん」
 特別何の感慨もなく呟くと、美香は形のいい眉をしかめてみせた。
「マジでどうでもよさそうね」
「だって本当に興味ないもん」
 美香のわざとらしい溜め息にむっとして、千代は続ける。
「男子校に行ったって面白くも何ともないし」
「千代のそれはいつまで経っても変わらないね」
「乙女心なんてわかんないよ。矢部だってそうでしょ」
 千代は陸上部の昼練出ている友人の名を挙げた。
「他の子誘って行けばいいじゃん。一高なら行きたい子はいっぱいいるだろうし」
「あたしも去年まではそうしたけどさ。今回ばかりは勝手が違うのよねえ」
 言うだけ言って、美香の視線は携帯の液晶画面に戻っていく。素早く親指を動かす様子でメールだと分かったので、千代は開きかけた口を閉じた。
 話が見えなくなってきた。宙ぶらりんの疑問を抱えながらも手持ち無沙汰で、千代はふと窓の向こうに目をやった。
 換気のために窓を開けているというのに、備え付けのカーテンは申し訳程度にも動かない。涼しい風が入ってくるわけでもなく、窓ガラス越しに伝わってくる太陽の熱は着々と教室内を暖めている。室内はまだ眠くなるような温度で済んでいるが、外はまるで夏のように暑いのではないだろうか。千代は陸上部の練習が行われているはずのグラウンドに目をやって、そしてフェンスの向こうに広がる住宅街を眺めた。
 背の低い建物の間を縫うように、あちこちに街路樹の冠が顔を出す。夏の到来を象徴する新緑の中にちらほらと淡い暖色の花弁が見えた。
 この住宅街を五分ほど歩いたところにある駅が、千代が通う西谷女子の最寄り駅だ。そして駅の反対側に十分ほど歩くとそこには西谷女子から一番近い男子校――通称一高――がある。お互いに入試の難易度が同じくらいの私立の中高一貫校である両校には、何かにつけて生徒同士の交流があるという。メールアドレスの交換然り、文化祭での行き来も然り。もっとも、そういうことにはあまり関わりのない千代にはあまり馴染みのない学校といえた。
「千代、再来週の土日は空けておいてね。どうせ暇でしょ?」
 小気味いい音を立てて美香は携帯を閉じる。
「なんで私が行くの」
 先の見えない会話に戸惑っていると、美香はああもう、とじれったそうに身を乗り出した。
「矢部を連れてくのよ、一高に!」
 だからなんで。口を開きかけたところで、チャイムが鳴った。予鈴だ。そしてほぼ同時に教室の扉が勢いよく開く音がした。
 教室の後方に目をやると、扉の前には汗だくのジャージ姿が目に入る。矢部が帰ってきた。恐らく練習が終わってから全速力で階段を駆け上がってきたのだろう。矢部は立ち止まって大きく息をついた。
「矢部、おかえりー」
 美香が手を挙げる。それに応じて、矢部は人懐っこい笑みを浮かべてやって来た。
「ただいまー。ああ、疲れたー」
 矢部は空いていた椅子に腰掛けて机に崩れ落ちる。手元にあるファイルで扇いでやると、矢部の短い髪が微かになびいた。
 お疲れ、と声をかけると、矢部は片手だけを挙げてそれに答える。
 色々な教科のプリント類が入っているファイルはそれなりの厚みがあって、風を送るのには若干役不足だ。だけど下敷きもうちわも持っていないから仕方ない。焼け石に水であっても、ないよりましだろう。
「教室、クーラー効いてなくて残念だったね」
 扇ぎながら言うと、矢部は首を横に振る。
「ううん、外よりだいぶマシだよ」
「こんなに暑いんだから、早く冷房入れてくれたっていいのにね」
 美香が携帯を片手に呟いた。
「あと一週間だっけ?」
 千代は衣替えまでの日数を指折り数えてみる。この学校では冬服から夏服に入れ替わる五月下旬に各教室の冷房が使えるようになる。だから毎年衣替えの直前が一番つらい。気温はぐんぐん上がっていく、でも冷房は使えない。しかも冬服は通気性が悪い素材で、熱を吸収しやすい紺色だ。
「あと一週間も……」
 矢部がうなだれる。すると美香が頬杖をついて矢部を見下ろした。
「ちょっとくらい融通がきいたっていいのにね。こっちは矢部が練習してくるたびに暑苦しくて仕方ないってのに」
「ひどい!」
 矢部が両手で机を叩いた。美香はそんな必死の抗議も受け流して続ける。
「だって矢部が帰ってくると体感温度がずいぶん上がるもん。ねえ、千代」
 美香がちらりと千代を見た。その眼には活き活きと楽しそうな色が浮かんでいる。
「ねえ、そんなに酷くないよね!」
 面白がる美香に、矢部は必死で抗議する。いつもと同じやり取りに、千代は思わず吹き出した。
「千代!」
 矢部の抗議が後を追う。美香も笑った。
 矢部は憮然として座りなおす。二人でひとしきり笑った後、美香がそうだ、と話題を変えた。
「一高のチケット貰えることになったよ。矢部、行くでしょ」
 え、と矢部は戸惑ったような反応を返す。そこで千代は忘れかけていた疑問を思い出した。
「再来週、一高の文化祭。こないだ予定聞いたよね」
 とたんに矢部が真っ赤になった。
「うっそ、何、そういうこと?」
 矢部の反応で、千代はかなりの驚きをもって事情を飲み込んだ。
 美香が笑って「そうそう」と返す。
「矢部が恋してんのよ。ね」
 矢部は二人の視線から逃れるように俯いた。

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