| トップページ | 小説リスト  | ごあんない | リンク集 |

  磁石人の受難

 この数週間でだいぶ馴染みになった少年は、校長室の真ん中で真っ赤な顔で俯いている。か細い声で謝罪を口にする彼を前にして困り果てた仙崎校長は、間に立つ磯田先生と目を見合わせた。
 目の前の執務机には、大小の破片と成り果てたガラス瓶が新聞紙の上に居座っている。これで何度目だろうかと考えて、仙崎校長は密かに溜め息をついた。これは目下の悩みの種だったが、彼に何の非もないことは、仙崎校長は身をもって知っている。
 小太りな体を椅子に深く沈ませて、片手であごひげを撫でながら思案していると、少年が今にも泣き出しそうになっていることに仙崎校長はふと気付いた。慌てて体を背もたれから起こし、ひとつ咳払いをする。「あー」、と意味を持たない音を発すると、少年はびくりと身を竦ませた。
「その、なんだ。前回も言ったとおり、君が悪いことは一つもない」
 少年は姿勢を硬直させたまま、張り詰めた表情でこちらを伺い見ている。目には涙が浮かんでいた。
「保健室に行って来なさい。薬を貰って落ち着けば、症状もすぐに鎮まるだろう」
 仙崎校長が微笑んでみせると、少年はいくらか安心したように体から力を抜いた。
「さ、行きなさい」
 傍らに控えていた磯田先生は少年の肩に手を置いて、優しく出口へと導いている。緩やかに波打つ茶髪の向こうに、両目をこする少年の左腕が覗いていた。母性のにじみ出るその光景が、小学三年という年齢にしては小柄な彼を余計に幼く見せている。
 校長室の扉が閉まると、磯田先生は仙崎校長に向き直った。
「申し訳ございません。私の不手際です」
 頭を下げる磯田先生を、校長は手で制す。
「磯田先生、誰が悪いということもないでしょう。しかし――いやはや、困りましたな」
 仙崎校長は執務机に乗ったガラス瓶の残骸と、その下にある新聞紙の見出しに目をやった。一面で黒々と主張する文字の並びは、たった今彼を悩ませている問題を報じている。

 磁石人間次々と――硝子製品の被害相次ぐ

「備品は厳重に管理していたのですが、旧校舎はまだ手付かずでした。そこに子供たちが入り込んで、遊んでいたようです」
「いや。何にしても、怪我がなくてよかった」仙崎校長は頭を抱えてため息をついた。「ただでさえ今は父兄からの問い合わせが殺到しているのだからね」


 この奇妙な現象が報じられはじめたのは、二ヶ月ほど前のことだった。
 それを自宅のテレビで初めて見たとき、手品の類を大々的に報じるなんてと呆れたことを、仙崎校長ははっきり覚えている。無数の硝子細工が一人の人間めがけて四方八方から飛んで来る、まるで映画の一場面のような映像だった。
 最初の衝撃も薄れ、連日新聞の一面を飾りニュース番組を賑わせる現象に無頓着になってきた頃、仙崎校長が勤める小学校にもその現象の魔の手が伸びてきた。今では全校児童三百人のうち一年生に二人、三年生と四年生に一人ずつ、それと五年生三人が“硝子磁石”になっている。この七人のうち二人は父兄の判断により数週間登校しておらず、一人の一年生が保健室に登校するようになった。
 “硝子磁石”化の事件がようやく真実味を帯びて世間に認知された頃、仙崎校長の小学校はただちに文部科学省からの通達に従った。
 理科室のフラスコや試験管の類は段ボール箱に詰めて(荷物を詰めたダンボール箱が運搬中に“硝子磁石”の児童を襲いかけた事故はあったが)地下の倉庫に保管した。家庭科室のガラス食器も倉庫に保管し、高学年の調理実習は今のところすべて取りやめている。しかし複数の児童が“感染”してからは通達内容に従うだけでは追いつかず、教職員が総出で学校中のガラス製品を回収する羽目に陥った。
 さらに四人目の児童の感染が発覚した頃、風邪薬が一時的に症状を緩和させることが報道された。仙崎校長を含む日本中が藁にもすがる思いで風邪薬を頼っているが、如何せんその効果は小一時間しか継続しない。
 まるで全貌の見えない敵と長期間戦い続け、誰もが疲れ切っていた。


「全く、頭の痛い話だね」
 半ばぼやくような仙崎校長の声に、磯田先生は目の下に隈が色濃く残る表情で頷いた。
「ええ、本当に」
 窓から穏やかな春風が吹き込んで、磯田先生の長髪をなびかせる。窓枠だけが寂しく残る空洞は、この小学校全体に見られる光景だ。昇降口のガラス窓にひびが入っていたのが数日前に確認され、学校中の窓ガラスという窓ガラスを業者に取り外させたのだ。
 風対策のために全校児童は常に文鎮でノートを押さえねばならなくなったし、風にプリント類が飛ばされて大騒ぎになる職員室の混乱を仙崎校長は何度も目撃している。しかし窓から吹き込む外の空気に、仙崎校長はすでに慣れっこになっていた。
「春一番が来る頃になったら一体どうしたらいいものかねえ」
 あごひげを撫でながら仙崎校長は呟いて、無意識に反対の手をガラス瓶に伸ばす。するとまるで磁石に反発するかのように、瓶は指先からすっと離れていった。仙崎校長はぎょっとして指を引っ込める。
 心臓に悪い感覚が体の肝を一瞬で冷やして去っていく。
「校長」、と磯田先生は駆け寄って、不安定に揺れるガラス瓶を押し留めた。
「――ああ、済まないね。うっかりしていた」
 激しい動悸の音が体中を打ち鳴らす。震える息を吐き出して、仙崎校長は動悸が収まっていくのを感じていた。


 主に報道されている“硝子磁石”化はガラスを引き付けるものとされているが、ごくまれにガラスを遠ざける性質の“硝子磁石”の症状も存在する。感染の原因や病気のメカニズムはまだ分からないとしたうえで、主治医は仙崎校長にそう告げた。ただ、ガラスを引き付ける感染者の数に比べて遠ざける例があまりにも少ないため、一般的には認知されていないのが現状だ。


「保健室に、風邪薬を貰いに行ったらどうです」
 数少ない理解者の磯田先生は、口元に笑みを作る。
「全く、厄介な病気だね」
 仙崎校長は嘆いて言った。

戻る

クリックが創作の励みになります。お気軽にどうぞ。※コメント無しでも送れます
Copyright (C) 2008 Asa Itsuki All Rights Reserved. inserted by FC2 system